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 沖縄の魅力と歴史

                   屋根獅子

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2、屋根獅子の起り

 今日ではブロック建ての屋根にも屋根獅子を据えてあるのをたまたまみうけられますが、元来は瓦葺と不離一体の形をとるものであり、また茅葺にそれを用いた例はこれまで知られておりません。

それで屋根獅子の起りを探るにあたって最も大切なことは琉球における瓦葺建築の歴史であるといえます。

 これまでの歴史記録や古城址などから発掘又は採集された資料等によると、瓦葺に改められていく過程は城楼や寺社がその先駆をなし、ついで貴族の住宅、それから一般士族と進んでいったことがわかります。

王朝時代には住居に関するきびしい制限があったため、平民の家に瓦葺が現われるのは明治以降になってからであります。

とはいっても第二次大戦までの農漁村地域における住宅事情から推して、たとえ瓦葺がゆるされたとしてもなかなかできなかったのが実情ではないでしょうか。

 反面瓦葺にする財力は充分持っていながらこの制限のためできなかった豪農たちがいたことも事実でしょう。

たとえば王朝時代琉球の豪農として知れわたっていた玉城村字船
越の「上門」や、現在文化財に指定されている中城村字大城の「仲村屋」などがそれで、いずれも瓦葺に改めたのは明治の10年頃といわれています。

このような事実から、それまでは農漁村では屋根獅子は用いられなかったということが出来ます。

しかし、那覇は琉球国王の門戸としての対面上、住居についての厳重な制限はなかったとのことで、したがって財力のあるものは平民でも瓦葺の住居を構えていたであろうことは十分想像されます。

 このような住居に関する制限が出されたのは1533年のことで尚清王六年にあたります。この頃の建築状態についてその翌年、つまり1534年に尚清王の冊封使として来琉した明国の陳侃の「使録」によると民家の瓦葺はわずかで、あとは皆粗悪な茅葺だったようです。

その民家の瓦葺というのもおそらく顕貴の家屋をさしたものでしょう。それからおよそ2世紀後の1719年に尚敬王の冊封副使として来琉した徐葆光は久米村の大夫でも茅葺に住むものが多いと、その著「中山伝信録」に記述しているといわれています。(沖縄1千年史P・300)

 また球陽によると首里城を瓦葺に改めたのは尚貞王時代の1670年で、それまでは国殿や官室楼台すべて板葺であったことがわかります。

もっとも、首里城の瓦葺建築については、古瓦研究家によって、14世紀頃琉球に導入されたと考えられている高麗瓦が、西のアザナ附近から採集されていることからみると、その一角にはそれ以前にすでに瓦葺があったとも考えられます。

 尚貞時代(16691710年)には首里城のほか臨海寺や崇元寺、宮古、八重山の公蔵及び桃林寺も瓦葺にあらためられています。

 琉球で最も古い瓦葺があったと知られているのは浦添城であります。これは尚思紹王統(14061470)が起こった以前の王城で、その古城址から多量の高麗瓦が発掘又は採集されています。前述の首里城出土の瓦と同種のものであります。

 浦添城に瓦葺の城楼が現われたのは、いろいろな史実からみて察度王代(13501396)ではないかと考えられています。この時代に始めて朝鮮と通交したことが史実にみえるからであります。(1389)察度王代というのは、また別の意味でも琉球文化に大きな転機をもたらした時代で、1372年に始めて明朝にも入貢し、1385年には琉球三山に海舟が与えられ、1392年には閩人36姓の渡来がありました。

 察度王代はこのように積極的な外交政策を展開し、朝鮮、中国の文物がとり入れられ、在来の琉球文化に多くの刺激をあたえた時代でありました。

後代の琉球文化隆盛の基礎は疑いもなくこの時代に固められたともいえます。なかでも閩人36姓の渡来はその意味できわめて重大な意義をもつもので、中国の文物はほとんど彼等を通じてもたらされたといっても過言ではありません。獅子彫刻にしても例外ではないでしょうか。

 さて、以上述べてきた瓦葺よりも更に古いものがあるかどうかであるが、これについては依然製作年代に疑問を残している前述の英祖王陵内の石棺屋根の瓦葺をかたどった彫刻があります。これをいま仮に英祖王が墓を造った年代と同じだとすれば1264年で察度王代から約1世紀も古いことになります。

 以上瓦葺の歴史の概略を述べてきましたが、これは瓦葺の建物が現われたからといって直ちに屋根獅子が用いられたとする意味ではありません。反面瓦葺に先行する板葺きの時代もあったことが史実に明らかであるので、この時代に屋根獅子とつながるものが全くなかったともいいきれません。

 そこで、今日の屋根獅子を起点にしてそれに至るまでの過程を逆に辿りながら、その起源を追ってみたいと思います。

 屋根獅子は素材の面からみると2種に分類できます。ひとつは屋根瓦の破片などを骨組にしながら漆喰で肉付けされた塑像で、今1つは陶製のものであります。

屋根獅子の大部分は前者、つまり漆喰製塑像で、陶製のものは土地から壺屋で多く用いられ、地方ではまれにしかみられません。また陶製のものは釉薬のかかったものはわずかで、素焼のものが圧倒的に多いです。

 現存する屋根獅子の中で最も古いと思われるものが現在壺屋に2例残されています。

「前の屋」の石垣というのは石壁を兼ねたもので、その上に屋根を乗せたものであります。この石壁は石と土とで積み上げられ、当初は表面に漆喰塗装が施されていたとのことですが、最近になって風雨でそれが剥落し、獅子頭の残欠が石代わりに用いられていることがわかったとのことです。

この残欠は焼物ではなく漆喰製の塑像で、下アゴは失われ、顔面の上半分が外部に露呈し、目や鼻や耳の一部がみられ、一見して獅子頭の残欠とみとめられるものです。
話によるとその石壁の建物は少なくとも
120年から150年はへており、この獅子像残欠も建物と共に古いものとみてよいとのことです。これは素材が漆喰であるところからみても屋根獅子として用いられたことに間違いはないでしょう。

 博物館にも戦前のものが数例あつめられていますが、年代についてはまだ明らかにされておりません。ここで、上記の2例によって、明治以前にも今日の屋根獅子に類するものがあったことが明らかになると思います。もっともこれはきびしい住宅制限のない那覇や、首里の士族の家屋に限られていたものと想像されます。

 では、さらに古いものに目を転じてみましょう。さらにふるいものというのは、これらの屋根獅子と同形式のものという意味でなく、それとつながりのある、いいかえると屋根獅子が派生したと思われる獅子像ということでります。

それは端的にいって、厨子ガメ類に附帯する装飾獅子群であります。琉球の厨子ガメ(骨壺)は屋根獅子とならんで、琉球の文化を特色づけるもうひとつの素因をなすものであります。

 琉球における墳墓構築と厨子製作の歴史はそのまま琉球の人々の先祖の霊に対する信仰の深さを物語るものでありますが、反面それは琉球における貧困な住宅事情を微妙に反映させたところもあるように感じられます。

それは厨子のほとんどが御殿や寺院を型どったものであるということにみられます。つまり生存中は粗悪な住宅にあっても、後生は御殿のような立派なものに入りたいという願望のあらわれとしてとれぬこともないということであります。

 また墳墓についてもそのことわざに「かーらかやぶちや かりやどどやゆる、ふんしまちがねやいちむいちまでん」というのがあります。瓦、茅葺の家屋は仮の宿でしかない、お墓こそはいついつまでもという意味であります。

お墓は立派に建造すべきことをさとしたものですが、強調のため瓦葺までも軽んぜられているような印象も受けます。しかし本音は逆といえます。

つまり住宅などは貧困のため一人の力ではどうにもならないという諦観がみられるのであります。その点墳墓は門中あるいは友人などが寄合って共同で造営出来るという、より現実的で、実現の可能性のあるものであったためではないかと考えらています。
もっとも首里、那覇、あるいは地方によっては家族単位で墓をもっているところもありますが、これは後代になってから現われたものではないでしょうか。

 さて、この辺でまた厨子にもどりましょう。琉球の厨子は、わずかな特例―たとえば運天港古墳内の木棺等―を除いて、材質の上から大きく二種に分けられます。石厨子と焼物の厨子であります。

 これを形の上からみると、石厨子には方桁造りと入母屋造りがあります。しかし、方桁造りは前に述べた「浦添ようどれ」のわずか数例に過ぎず、他はすべて入母屋造りでまたほとんど装飾は施されておりません。

これらの石厨子は一般に「イシジーシ」又は「ヤカタージーシ」とも呼ばれ、年代は相対的に焼物の厨子に先行するものと考えられています。

ただこれらの石厨子と併行して外来のルソン南蛮と呼ばれる焼物の壺が厨子ガメに代用された形跡は古墳などにみとめられますが、これはしかし、あくまでも代用であって、分類の上からは問題にされるものではないと思います。

 焼物の厨子も形や焼方の上からまた数種に分類できます。これは一般に総括して「ジーシガーミ」と呼ばれているもので、ほとんど壺屋で焼かれたものであります。古我知窯でもかなり焼かれたらしいことは、その窯跡から出る破片でも知られています。

 壺屋で焼かれたものは、素焼のものと釉薬のかかったものの2種類があり、壺屋では焼方の上から素焼を「荒焼」、釉薬を施したものを「上焼」と呼んでいます。

これらを総括して形の上からみると「家型」と「壺型」に大別されます。家型は御殿又は寺院をかたどったもので「ウドウングワジーシ」又は「ヤカタージーシ」と呼ばれ、その屋根は入母屋造り又はその変形が大部分を占めています。

 壺型は、装飾の施されたものを「カーラジーシ」、装飾のないものを「ボージャージーシ」と壺屋では呼んでいます。カーラジーシの名称はその質感から、ボージャージーシの呼称はその装飾のないところからでたものでしょう。

 これらの厨子ガメの中で屋根獅子と関係があると思われるのは「ウドウングワージーシ」と「カーラジーシ」です。石厨子も潜在的にはつながりがあるとみられますが、ここではとりあげないことにしました。

 琉球では厨子に卒去年月日と洗骨年月日をしるす慣習があり、これは研究家にとって都合のよいことであります。それを通してその厨子の製作年がほぼ推定できるからであります。

 いま、沖縄県立博物館に各地から集められた厨子が70余点ありますが、石厨子を別にしてウドウングワジーシと呼ばれているものを調べてみると、上焼よりも荒焼のものが比較的に年代が古いです。

しかも、年代の古いものは総体的に装飾が簡素であるという共通した特徴をもっていることがわかります。同様のことが上焼についてもいえます。

さらにその屋根の装飾の方法にも共通した点が2つみられます。ひとつは屋根を鴟尾をもって飾ってあるということと、今一つは前面、背面の下り棟の先端に鬼瓦をかたどった獅子面を配してあることです。

その古い例の一つに「乾隆甲申」(1764)洗骨の記録のある親方部(上級士族)の素焼の厨子があります。逆算してみると今から206年前のもので、これまでみてきた厨子ガメから推して、このあたりがこの種厨子ガメがつくられはじめた年代ではないかと考えられています。
その屋根は入母屋造りを象徴的にあらわし、前面、背面に各1対の獅子面を配してあるのは、やはり首里城正殿からヒントを得たものと推測されます。


 これから時代がやや下ると釉薬のかかった上焼が現われ、その形態も屋根を2層にするとか、瓦葺を表わす刻紋を入れるとかいくらか変化をもたしてあります。しかし、棟の両端を鴟尾で飾り、下り棟に獅子面を配する形式に変わりはありません。ただこれらの装飾のほかに、あらたに屋根の前面中央に龍頭を配してあるのが注目されます。

 これが百年前後のものになるとこれまでの形式を基礎にしながらも、屋根の形態も複雑になり、装飾もやたらと増えてきます。たとえば厨子ガメ全体を3層に型どり、その12の隅棟先端にそれぞれ獅子面を配するだけでなく、胴部の中央上部にも獅子面を置くなどであります。これらの獅子面の数は、最上部の下り棟上2対のほかにであります。

 このあたりからはっきりと厨子ガメにおける獅子面が装飾としてばかりでなく、魔除けとして強く意識されながら用いられたことがうかがえると思います。すなわち、今日的屋根獅子への転身の過程の一端がのぞかれるというわけであります。

 ここで想起されるのは壺屋で焼かれた前述の屋根獅子でしょう。壺屋の陶工達の話によると、屋根獅子の古いものは「チブルシーサー」と呼ばれ、胴体はなく、頭部だけのものだったとのことであります。

胴体のついたものがつくられるようになったのは後代になってからのようです。このチブルシーサーの形式は、それがつくられた地域が壺屋であり、厨子ガメがつくられたのと一致するところから、おそらくこれらの厨子ガメにみられる獅子面からの発想であろうと考えられています。

 このことを裏付けるかのように厨子ガメの屋根の形態や装飾が更に変化していくことが注目されるそれは明治の末期から大正、昭和の初期頃につくられた厨子ガメの屋根前面中央には蹲居形の獅子像を据えてあることであります。

これはチブルシーサーでなく、今日の屋根獅子と同形のもので、明らかに今日の屋根獅子につながる形態を意識してつくったものと考えられます。その形態はおそらく、前に述べた城門や寺社の門前等に据えられた獅子像からきたものでしょう。

因みにこの頃は、今日壺屋で盛んにつくられている置獅子は、まだ多くはつくられていなかったようで、これが大量につくられるようになったのは昭和の始め頃のようです。
ということは、この頃の厨子ガメの獅子が、厨子ガメから独立して今日の置獅子に変っていったという見方も成り立つということです。

 カーラジーシの場合は、形が壺型であるため、屋根を写実的にかたどることは出来ませんが、象徴的に方桁造りの瓦葺をあしらった陰刻が蓋に施されています。その蓋の周囲に4乃至は6つの獅子面を配し、前面中央に龍頭を据える形式であります。身の方もその9分目位のところで襞褶を出し、それに瓦葺屋根の陰刻を施し、4方に向けて獅子面を配してあります。博物館にはこの種のカーラジーシで1850年代のものが4,5基あつめられています。

 このように厨子ガメに獅子面(ここでちょっと留意していただきたいことは、これまで獅子面という表現をとってきましたが、これは普通にいう面の概念ではなく、獅子頭ともとれる半立体的なものであるということであります)を配するというのは、前にも述べた通り王宮や寺院にならったことは自明であり、その形式上の具体的な発想は首里城正殿によるものでしょう。それはさらにさかのぼって、首里の「玉陵」の塔上獅子一対にもつながるものと考えられています。

 また、「浦添ようどれ」の石棺屋根獅子群もみのがせません。これについては前にもふれてあるのでここでは省略しますが、ただ、この石棺の屋根獅子配置の様式は古いものには例がなく、まったく独自の位置を占めているということだけを指摘しておきます。屋根獅子とのつながりもまだまだ究明する余地があり、またこれらの石棺全体についても多くの研究課題が残されています。

 さて、屋根獅子の起源について、これまで述べてきたものをまとめてみますと、屋根獅子の起源と形式の上でつながりをもつものとして、王宮や寺院又はそれを型どった厨子ガメに附帯する獅子面があるということと、今日の屋根獅子の様式があらわれたのはそう古くはなく、大体18世紀後期から19世紀初期にかけてではないかと推定されるということであります。

また、それを生む民俗的な素地は、察度王代(14世紀後期)に渡来した閩人36姓によってもたらされたとみなされる中国の文物(特に道教と獅子像)と沖縄固有の民俗との結合にすでにその芽生えがみられ、部落共同の「キリンチ返し」の獅子像などその好例の一つにあげることができるということであります。

 なお、ここで漆喰型像についても触れるべきでありますが、その発生は焼物のあとだとみられる点がありつぎの「様式」や「つくり手」の頃でその都度とりあげていきたいと思います。

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沖縄の屋根獅子

 

 1.琉球の唐獅子

 2.屋根獅子の起こり

 3.屋根獅子の様式、形式 、素材

 4.屋根獅子のつくり手及  び分布と用法





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