屋根獅子のつくり手

 沖縄の屋根獅子        屋根獅子の作り手

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4、屋根獅子のつくり手、及び分布と用法

 古い屋根獅子のつくり手が壺屋の陶工たちであったことは前に述べた通りです。これについて、古い様式の屋根獅子(チブルシーサー)を現在でも専門につくっている方やその他の陶工達の談をまとめながら記録の意味も含めて述べてみます。

 壺屋の村は、他の沖縄の村々と同じように、戦前西(イリ)東(アガリ)に分かれ、東は上焼専門で、西は荒焼専門でありました。

そして壺屋には4つの種類の窯があって、所有している窯の種類によって、上焼屋(ジョウヤチャー)、荒焼屋(アラヤチャー)、釜小焼(カマグワーヤチ)、赤者(アカムヌー)という呼称で陶工たちは呼ばれていました。

この4種類の窯は、それぞれ規模や形式の違うもので、上焼屋の窯は登窯様式の袋窯で、荒焼屋のそれは登窯様式のトンネル窯、窯小焼は荒焼窯の規模を小さくしたもの、また、アカムヌーの窯は今日の石灰を焼く窯の結構に似たものであったといわれています。

 上焼窯はいうまでもなく釉薬のかかったものを焼き、今日でもその伝統は連綿として続いています。また荒焼窯は、今では一基だけしか残っていませんが、明治36年、7年頃にはその窯数およそ40にも及び隆盛をきわめていたとのことです。

この窯で焼かれたものは、方言で「カーミ」と呼ばれている穀物や酒、味噌などの貯蔵に用いられた素焼の壺類、水ガメ類等が主でありました。

ここで注目すべき点は、この窯こそ屋根獅子やお獄用の魔除獅子等が、注文によって、焼かれた窯であったということと、いまひとつは、時には屋根瓦を焼くこともあったという事実であります。

これに関連させて、前に壺屋の陶工たちから瓦工に転業するものが出たと述べておいたことを想起していただきたいと思います。

 窯小焼では、「ミジクブサー」(一種の手洗鉢)一人用の「ボージャージーシ」など比較的小さい品物が焼かれたが、この窯でも獅子はつくられたようです。

 アカムヌーの窯では、「サークー」(土窯)、「ヤックワン」(土瓶)、「フイールー」(火炉)など、いわゆる小物が焼かれたという。くりかえしていうまでもありませんが、これらはすべて素焼であります。

 これで屋根獅子の焼かれた窯の位置が判然としてきたと思います。壺屋の獅子焼物は大正の末期に転機をむかえます。それは本土より陶芸研究のため来島したといわれる黒田、益田、二之宮氏等のすすめで上焼窯でも獅子像が焼かれるようになったということであります。

上焼の獅子像は、それ以来今日に及び、いまではどこの上焼窯でも立派なものがつくられ、装飾用の置獅子としてだけでなく、屋根獅子にも用いられています。

 それ以前、つまり明治から大正にかけて、獅子像(主に屋根獅子とお獄用獅子)をつくったものとして壺屋の陶工達の間で記憶されているものに、カマニーグワ(窯根小)とか、クシンヤーグワのジラー(次郎、姓高江洲)、ミーシチグワ(新屋敷小、姓島袋)、メーデークグワ(姓高江洲)などがあります。

 その中で「窯根小」は壺屋の窯元である「窯根」の分家で、小橋川永仁氏の記憶によると、この家の主人は花瓶類に盛付(方言で「タックワサー」)で獅子や牡丹、龍などもよくつくっていたように憶えているといいます。小橋川氏の小さい頃というから大正の末期でしょう。

 また、話によると、メーデークグワの主人は屋根獅子やお獄用の獅子を専門につくるかたわら、よく詩歌を詠み、首里人士とのつき合いも深い才人であったが、尚泰王崩御の際妻と共に殉死した変り種であったようです。

 沖縄では古くから瓦をつくり、瓦屋根を葺き、それを漆喰で固めていく職人及び大方これ等の人々で構成されていた部落を、総括的に、又は個別に「からやー」と呼んでいます。

 戦前は、その中で「那覇からやー」と「首里からやー」がよく知られていました。那覇からやーは、今の那覇高等学校グラウンド西側にあった部落をさしているが、ほかに牧志部落にもあったようです。

 首里からやーというのは、元来観音堂北側の大通り下の部落のことで、行政区画上は山川町になっている。首里にも、もう一つ鳥堀にからやーがあったらしく、どちらも首里からやーと呼ばれ、まぎらわしいのでこれと区別するため、翁長氏は自ら「観音堂からやー」と呼びならしているようです。

 観音堂からやーは近年(戦後も含めて)まで部落のほとんどがこれらの職人で占められていたが、今では本職の職人は2、3名しか残っていません。この部落には、部落東端に瓦焼窯も残っていたといいます。年数にして今から55年位前だということで、大正の初期にあたります。

この事実からみて、この時期を前後する頃から「からやー」というこれまでの総合的な性格から、はっきりと職業的に瓦づくりと左官の分業がはじまったのではないかと考えられます。

 したがって、漆喰製屋根獅子づくりのにない手は、それ以前は「からやー」と呼ばれた職人達で、それ以後は「ムチゼーク」と呼ばれている瓦葺屋根左官達であるといえます。勿論この二者は本質的には同一の職人なのです。

 これらの職人のなかでも実際に屋根獅子をつくった人達は、大方棟梁で、屋根葺の最后の仕上げとして、1、2時間の短時間でつくりあげてしまうのであります。屋根獅子を据えるかどうかは家主の希望にもとづくが、その方角については、家主の希望によるときもあり、またつくり手にまかされる場合もあるといわれています。

 専門家の話によると、屋根獅子を向ける方角はだいだい3ヶ所になっているといいます。すなわち、「キリンチ返し」のための方角と、艮(東北)、午(真南)の方角です。

 この中で最も多いのが「キリンチ返し」のための方角で、これはその屋敷に突きあたる道とか、その家の門に向けたり、あるいは周辺の「風水」をみて向けるものだといいます。

屋敷に突きあたる道に向けるのは「石敢当」に順ずるし、門に向けるのは「ヒンプン」と同義でしょう。

「風水」というのは、周囲の地形により吉凶をみるもので、元来墓地を決める際に用いられ、屋敷には適用されないものですが、いつしか屋敷にもあてられるようになったものといえます。

 つぎは艮と午(東北と真南)の方角です。艮は「うし、とら」の方角ともいわれますが、沖縄では「カジヌニー」(悪風の根?)と呼ばれ、いわゆる「鬼門」であります。鬼門について講談社の大辞典によると、「萬の鬼のあつまるところ、東北の隅。隋書に、(廻風従昆地鬼門来)とあり、陰陽家にて萬事につけ忌み避くべき方向・・・」と説明されています。また、易断の家相の説明によると、この方角に門を構えると「病人が絶えず子孫断絶す」、とあります。けだし鬼門と関係するものでしょう。

 午(真南)にむけるというのはどういう理由によるものか、明確な説明は得られませんでしたが、これまた易断の家相の説明によってみると、この方角に門を構えれば「火難」にかかりやすいと説明されています。あるいはこれとつながりがあるのではないでしょうか。つまり、屋根獅子を「火伏」としてこの方角に向けるという解釈です。

 このように、屋根獅子の向く方角については、道教や易などがからまり、その方面(民間信仰)からのアプローチも必要であるが、浅学菲才のいたすところ深く触れ得ないのを残念に思うものであります。この道の専門の方々の研究に期待したいと思います。

 さて、最后にその分布を眺めてみましょう。これまでの調査では、屋根獅子は南部に集中して多く見られ、中部、北部、にいくにしたがって少なくなります。

たとえば南部の真壁村などは、屋敷内にある棟違いの瓦葺全部に獅子を据えるとか、また、一棟に二体据えるという例が多く、屋根獅子の置かれていない瓦葺をみつけだすのに苦労するくらいです。

それにひきかえ、北部、例えば、金武村の金武、並里部落を例にとると両部落の瓦葺棟数二、三百棟ありながら、屋根獅子はわずか四、五体しかみられない状況です。

もっとも古老の話によると、戦前はかなり屋根獅子は用いられていたというから、これは戦後の現象らしいです。戦前は、専門家の話によると、屋根獅子が最も盛んに用いられたのは、都市地区では垣之花、泊地方では漁村が多かったといいます。

漁村に屋根獅子が多かったというのは、農村に比較して瓦葺が多かった事情にもよると思われますが、戦前戦後を通じ、このようにその分布に濃淡がみられるのは、明らかにいろいろな社会的乃至は民俗的要因が潜在するためだと考えらます。

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沖縄の屋根獅子

 

 1.琉球の唐獅子

 2.屋根獅子の起こり

 3.屋根獅子の様式、
  形式 、素材


 4.屋根獅子のつくり手及  び分布と用法






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