琉球の唐獅子

   沖縄の屋根獅子

唐獅子

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1、琉球の唐獅子の中で屋根獅子の占めている位置

琉球の歴史をながめてみると、その主流をなしているのが獅子像彫刻で、獅子像の歴史はそのまま琉球彫刻史におきかえることも可能であるといっても過言ではありません。
いいかえるとこれは獅子像というものが如何に深く沖縄の人々の生活の中に根をおろしていたかを示す証左にもなるといえるでしょう。

 さほどに琉球では多くの獅子像がつくられてきたのでありますが、それでは人々の生活の中で、それはどのように用いられてきたのでしょうか。その用途の上から具体例をあげながら検討を加えてみたいと思います。

 獅子像には元来三つの性格乃至は意義があたえられていると考えられます。一は権威の象徴として、二は降魔除災の守護神として、三は装飾としてのそれであります。
これは洋の東西を問わず獅子像のもつ共通した性格であり、琉球の獅子像もまたその例外ではありません。
この三つの性格のどちらに大きな比重を置くかということはそれを用いる場所、あるいはその時々の用途によって異なることはいうまでもありません。

琉球では権威の象徴と装飾性に大きな比重のかかったものは、その殆んどが貴族の生活と深いつながりをもち、一方降魔除災の守護神としての意義にウエイトのかかったものは庶民の生活の中に多くみられます。
現存する古い琉球の獅子像の大方は前者に属し、後者は、今日なお盛んに用いられている屋根獅子によってそれを代表させることができます。

もっとも屋根獅子もその発生において貴族的なものと密接なつながりをもつもので、単純に割り切れないところもありますが、それが独自の位置を占めるに至った段階で庶民的性格を濃くもつようになったという意味であります。

 しからば、琉球で貴族の生活の中から派生した獅子像には具体的にどのようなものがあるかというと、まずあげられるのが、建造物、たとえば城や寺社、それに王族又は上級士族の墓陵、あるいはその中に納められた石棺や厨子ガメ等に付帯して、建築装飾又は権威の象徴として用いられた獅子像でしょう。

 城に用いられた獅子像として、首里城を例にとってみると、「歓会門」(大手門)「瑞泉門」(第一内門)に据えられていた各一対の獅子(砂岩)と正殿屋根の前面と背面下り棟の端に鬼瓦として用いられた二対の獅子面をあげることが出来ます。
(因みに円覚寺の鬼瓦はし紙面でなく鬼面になっていた。)

城門の獅子像は装飾的な意義は勿論、権威の象徴としての性格も強いように思われます。
一方正殿屋根下り棟の二対の獅子面はあくまでも建築装飾として用いられたものでしょう。
この方は屋根に据えられたという形式の上からみて、後代の屋根獅子発生の素因のひとつとして考えることができるものです。

 寺社に付随するものとしては、首里では円覚寺(前述の鬼瓦は別)や末吉宮、地方では八重山の権現堂等のものが古いものとして現存しています。ほかに宮古の権現堂にも立派な獅子が一対あったことが古い写真でわかりますが、戦後失われて、どこにもっていかれたかわからないといわれています。

円覚寺の獅子像は戦前国宝に指定されていた放生橋欄干羽目左右二対の高肉彫獅子像と同支柱上の彫像が著名です。(素材は閃緑岩)。

そのほか建物の内部装飾としての木彫浮彫や文殊菩薩の乗っていた寄木造りの獅子彫刻があったことが知られています。しかしこれらは去った大戦で破壊され、今はその残欠が残されているだけであります。この木彫浮彫は牡丹に獅子の組合わせで、いづれも彩色されているものでありました。

牡丹に獅子を配する様式は中国や本土ではかなりあったようですが、琉球ではその例は多くはありません。
たいていの場合この二者は単独に用いられています。中国にならって牡丹が装飾模様として古くから琉球でも重んぜられたことは多くの実例を通して知ることができます。
中国では牡丹は花王、つまり百花の王として特に尊ばれたようで、獅子が百獣の王として尊ばれたのと基を一にするものでありましょう。

この両者の組合わせは調和のよさや完璧を意味するものと解してよいと思います。このように獅子に牡丹を配するという形式をとり入れたと思われる例が、わずかではありますが屋根獅子にもみられます。それは図案化された牡丹模様の花瓦を屋根獅子に配する形式をとっているものです。


八重山権現堂の獅子というのは本堂正面階段の左右両手慴羽目の木彫透彫で、これまた秀逸なものであります。

そのほか首里、那覇を中心とした他の寺社にも獅子像があったことは古い写真などから知られますが、現存しないものが多いのでここでは省略したいと思います。

つぎに王族や上級士族の墓陵やその中に納められた石棺あるいは厨子ガメ等に附帯する獅子像をながめてみましょう。

琉球の王陵として一般によく知られているのは「浦添ようどれ」と首里の「玉陵」であります。このほかに王家に関係した墓陵として、「伊是名玉御殿」、「西の玉御殿」、「天山陵」、「佐敷ようどれ」などがあげられます。

これらはいずれも、多かれ少なかれ獅子像と関係のあるものでありますが、なかでも特に「浦添ようどれ」と首里の「玉陵」には興味深い獅子像が残されています。
「浦添ようどれ」は英祖王(1260~1300年)陵と尚寧王(1589~1621年)陵の二陵からなり、その獅子像というのは英祖王陵内に納められた三基と尚寧陵の一基の大石棺に施された浮彫の中に見られる獅子像であります。
これらの大石棺は寸法や形式に多少の違いは認められますが、総体に同じ様式でつくられたものであります(およその寸法は英祖王の大石棺を例にとると横約五尺、奥行約三尺、露盤までの高さ約四尺です。)

素材はすべて閃緑岩を用い、台座、棺身、屋根、宝珠それぞれに、仏像や動物、花などの浮彫を施し、屋根はいずれも方桁造りの瓦葺をかたどり、その規模において、また芸術性において、琉球第一であり、その秀逸さは目をみはらせるものがあります。
その中で獅子像が彫られた部分は台座(これは英祖王と尚寧王のもの二基だけ)と四基それぞれの屋根の隅棟上であります。台座の方には一対の玉取獅子が彫られ、円覚寺放生橋欄干羽目の高肉彫獅子を彷彿させるものがあります。
屋根は中央に宝珠を乗せ、四隅の隅棟の先端を鳳凰で飾り、その鳳凰と露盤との中間隅棟上に各々二軀宛ての獅子彫刻を配してあります。

この隅棟上の獅子像こそ、これまでに考えられる限りにおいて、琉球の屋根獅子の祖形ではないかとみられるものです。偶然の一致かも知れませんが、まったくこれと同じ方法で屋根獅子を据えてある例が、今日でもかなり各地にみられます。
これらの石棺屋根と同形式のものが屋根だけ、尚寧王陵の墓庭東側にもうひとつおかれています。またこの種石棺が首里大中の「天山陵」にもあったとのことでありますが、現在そのゆくえも知れず、その詳細についても知る方法はありません。

なお「浦添ようどれ」にはこれらの獅子像のほか、同石材で彫られた一対の獅子が尚寧王陵の袖積の上に飾られていたが、戦災で一軀は失われ、残りの一軀が現在沖縄県立博物館に保存されています。

墓陵の中で最も多くの獅子像で飾られたのは首里の玉陵でしょう。これは琉球最后の王統、第二尚氏(1470~1872年)の墓陵で、戦災を受ける前は多くの獅子像で飾られていました。
著名なものに墓陵全体を守護する形で両袖塔上に据えられた直立形の一対があり、また国王の墓陵のみの守護として蹲距形の一対があったことが古い写真によって知ることができます。

そのほか墓前石欄支柱上の獅子百態もよく知られています。その他の貴族の墓や、その中に納められた厨子等に附随する獅子像については、伊是名玉御殿内の二基の石厨子は勿論、「おろく大やくもい」の石棺やその墓前の石彫獅子像をもって代表させることができるでしょう。

これまで述べてきたこれらの獅子像は、いずれも獅子像のもつ3つの性格を備えていたものとみてよいと思います。

このように建造物に附随する獅子像のほかに、貴族の生活と結びつけられるものにさらに印章等に施された獅子彫刻がかなりあることを附記しておきます。

以上が貴族の生活から派生した獅子像として分類できると思います。ひるがえって庶民の生活の中にみられる獅子像とはどんなものでしょうか。

これは前にも触れた通り魔除けとしての意義に最も重点がおかれたものに多いです。その筆頭を飾るものが屋根獅子と部落全体の魔除けとして祀られている石製の獅子像でしょう。

もっとも屋根獅子については、その起源が貴族的なものにつながり、また王朝時代は階級による住宅建築の規制もあって庶民の生活の中にはみられなかったものでありますが、道教に因む民間信仰と、その他の民俗との関係からこの部にとりあげました。

その発生、様式その他についてはさらに後述するので、ここではその位置だけを指摘しておくだけにとどめておきたいと思います。

その発生から純粋に庶民的なものとして考えられる獅子像は地方で部落全体の魔除けとして祀られている獅子像であります。

これについて、その起源を辿るのに、きわめて貴重な資料が「球陽」に記録されています。
「球陽」巻え8、尚貞王21年(1688年)の頃に、「始メテ獅子形ヲ建テ、八瀬嶽ニ向ケ以テ火災ヲ防グ。東風平郡、冨盛村ハ、屢バシバ火災ニ遇フテ房屋ヲ焼失シ、民ソノ憂ヒニ堪ヘザリキ。是レニ由リ村人蔡應瑞大田親雲上ニ請乞シテ、ソノ風水ヲ見シム。應瑞徧ネク地理ヲ相シ、コレニ囑シテ曰ク。我カノ八重瀬嶽ヲ見ルニ甚ダ火山ニ係ル。早ク獅子ノ形ヲ作ッテ、八重瀬ニ
向ケ、以ッテ其災ヲ防グ可シト。村人ミナ其令ニ従ヒ、獅子ノ石像ヲ勢理城ニ蹲居シ、以テ八重瀬ニ向フ。此レヨリ而後ハ、果シテ火災ノ憂ヒヲ免ルコトヲ得タリ」とあります。(桑江克英氏の訳による)その獅子像はまったく無傷であり、びっくりするほど大きく、蹲居形で頭部の高さ147cm、胴の直径154cm、尾の高さ102cmで、おそらく琉球最大の獅子像でありましょう。

祀られている場所は、「ジリグシク」と呼ばれる古城址で、向きは、南西にそびえたつ八重瀬嶽の「シラワレイ」という岩に向けられています。

この岩は、村の古老に聞くと「ヒーザン」(火山)と呼ばれ、よく火玉があがったと聞きます。記録にある通り火伏として据えられたことは明らかであります。

この記録からして、部落協同の魔除獅子の発生はかなり古いことがわかります。これまでの調査によりますと、この種の獅子像は琉球全域にまたがってあったようですが、現存するものは僅かしか知られていません。

村によって冨盛のように一軀だけ据える形式と、大里村字当間のように対で据える形式がありますが、玉城村字糸数のように三軀対になっているめずらしい形式もあります。しかし、一般には対で据えられている場合が多いです。

このような魔除獅子を据えてあるところは、以上のほかに、与那原町字与那原(これは戦後復元されたもの)、同じく字当添、豊見城村字仲地、大里村字南風原、具志頭村字新城、東村字慶佐次のものがあり、また離島では伊計島のものが知られています。

戦前の那覇辻奥村渠の「シーサーヤー」の獅子、若狭町の「シーサーモーグワ」の獅子、「シーサーマーツー」(獅子松尾)の獅子などもこの種獅子像と同義のものであったと思われます。

これらの獅子像は「フーチゲーシ」(フーチ=流行病、ケーシ=返し)、あるいは「ヤナカジゲーシ」、「ヤナフゲーシ」、「アクフゲーシ」(何れも悪風返しの意)、また「サンゲーシ」、「ヒーゲーシ」(火伏)、「キリンチゲーシ」(後述)などと呼ばれています。

屋根獅子が、これら部落共同の魔除獅子と、ほぼ同義に用いられている事実からみますと、その起源についてかなり密接なつながりがあるものと考えられます。つまり共同の「魔除獅子」をもつ慣習が住宅事情の好転に伴い、やがて個人の家屋にもとり入れられていったというみかたです。

これは屋根獅子の起源を貴族階級が用いた獅子像につながりがあるとする前言と矛盾するかにみえますが、別の意味で屋根獅子発生の一因を成していると考えられるという意味です。

別の意味というのは、屋根獅子の形式が貴族的なものからきたとするなら、それを用いる民俗的な素地がすでに部落共同の獅子像にみられるということなのであります。

この種獅子像の形態は琉球の獅子像中最も単純で、素材も大方荒々しい珊瑚石灰岩を用い、その素朴さにおいて、また力強さにおいてまったく独自の位置を占めているものです。
それはこれらの獅子像をつくった人達が獅子造りの専門の職人でなく、したがって細い技術にながれず気概だけでつくりあげたことによるものと考えられます。

庶民的なものとして、ほかに民俗芸能の中にみられる獅子舞の獅子や、つな引きの時などに用いられる旗がしらの獅子絵などもあげられます。獅子舞の獅子は魔除けであるが、旗がしらの獅子は庶民的なものとしては装飾的性格をもつ数少ない例の一つであります。

以上用途やそれを用いた階層の面から琉球の獅子像をながめ、屋根獅子の位置を探ってみましたが、ここで結論としていえることは、琉球の獅子像を用途の上からみると、
1、もっぱら魔除を目的としてつくられたもの、
2、もっぱら装飾を目的としたもの、
3、魔除と装飾に重点をおきながらさらに権威の象徴としての意義もふくまれたもの
と3つに分類できると思います。
また、これを用いた階層と上記の分類とのつながりの面からみてみますと、
1は庶民の生活と深くつながり、2、3は貴族階層の間で多く用いられたものであるということができます。
その中で屋根獅子は1に属するものであるという結論を得ることができます。

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沖縄の屋根獅子

 

 1.琉球の唐獅子

 2.屋根獅子の起こり

 3.屋根獅子の様式、他

 4.屋根獅子の作り手、他





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